【09.08.10】インタビュー森敏夫さん 原爆症認定集団訴訟 政府は急いで全員救済を!!

原爆症 全員救済を一刻も早く!!

 
国に「全員救済を一刻も早く」と求めている原爆認定訴訟原告のお一人、森敏夫さんに革新・愛知の会の事務所でお話を伺いました。

森敏夫さん
 1924年(大正13年)12月18日生まれ。84歳 
 一宮市在住。被爆者集団訴訟原告。一宮被爆者の会副会長

名古屋高裁で勝訴したい

私は、原爆症認定集団訴訟の原告の一人です。2年前の名古屋地裁の判決で原爆症とは、認められませんでした。中村てる子さんとともに、大変悔しい思いをし、名古屋高裁で勝訴できるように頑張っています。

5月28日に東京高裁は、新基準で未認定だった10人のうち9人について却下処分を取り消し、原爆症と認める判決を言い渡し、これまでの一連の訴訟で国側は18連敗となりました。 私もその日に行なわれた全国集会に参加し、発言をしてきました。全国原告団長さんが、「原告全員が救済されるまでは、闘いは終わらない」と言われましたが、全国の皆さんが私たち敗訴した者を含めて、原告全員の救済を求めていることに感謝しています。

 名古屋地裁は、のう胞膵腫瘍という私の病気について、よく分からないという理由で原爆症と認めませんでした。
  
 しかし、私の主治医によると、私の罹った病気については、専門的な研究が最近進んだばかりだということです。被爆してから後、私は長い間、理由の分からない疲労、倦怠などを経験してきました。原爆ブラブラ病です。

 原爆が健康にどのような影響を与えているか全て分かっているわけではないのです。ですから、被爆との関係が疑われている病気に罹った被爆者を早急に広く救済していただきたいと思います

梁に押し潰され「助からない!」と覚悟

私は、第二総軍司令部参謀部通信班(広島市大須賀町)で被爆しました。日本は、大戦末期、本土決戦にむけたいろいろな情報を集めるために日本本土を東の第一総軍司令部と西の第二総軍司令部に分け、私はその任務についていました。

8月4日夜から5日の昼夜36時間連続勤務後、8月6日朝、兵舎へ帰り朝ご飯を食べました。疲れ果て、わら布団の中へもぐりこみ、毛布を掛けた瞬間に、閃光を受けました。
 兵舎は光とともに、つぶれ、火が走るように燃えひろがりました。兵舎は完全に押し潰されました。私は、梁に押し潰され「もう助からない」と思いました。ところが、運良く、背中を支えていた垂木が折れ、そこから這い出すことができました。20歳の時でした。

柱の下敷きになった人、腹や胸に刺さって即死した人、梁の下敷きになったたくさんの人から血が吹き出している惨状でした。
     
膝関節の上に梁が落ちた戦友が、強い力で私の足を掴み、「このまま置いて行かれたら、誰の骨か分からなくなる。足の骨を切って出してくれ」と。「切ることはできない」と言ったのですが、「頼むから足を切ってくれ」と毛布につつんで、連れ出しました。そうしたら、通信班の幹部が「どうしてこんな使いものにならない兵隊を、出してくるんだ」と殴られました。ああ、これが戦争かと思いました。戦友の足を切ったことで心が相当痛んでいるのに、このことは、ずっと心に傷として残りました。

今も死体の臭いが

その後、軍の命令で8日から架線工事、電線を引くなど町の中を歩き回りました。そのことが、体に大変な影響を与えたと思います。 軍の命令で、被爆地に残り、体内に放射能を吸い込んで病気になっている人が多いのです。そのことに対して政府はきちんと認めてほしいです。

 6日午後、広島の町がどうなっているのか見てこいとの命令で、燃え広がっている市内を歩き回りました。生後間もない赤ん坊が、死んだお母さんのお乳を吸っているのです。助けようと思いましたが、母親は、子どもを離さないのです。「この子を診療所へ連れて行けば何とかなる」と死んだ子どもを抱えた母親も、力尽きていました。川のなかは死体の山でした。阿鼻叫喚の世界でした。

その時に嗅いだ死体の臭いは、今も広島へ行くと臭います。体の調子が悪くなります。

全ての被爆者を救済してほしい

命令によって知覧へ特攻出撃命令の電報を打ったこともあります。電報を打たずにおけば私が殺される、打ったなら兵士の死・・・・。それは、心の中の傷としてずーと残って、いまも心の中では、葛藤し続けているのです。

 私は、戦後、「フクンショウシュウサレル ゲンタイニフッキセヨ」との電報を受け取り、アメリカ軍の取り調べを受けました。第二総軍司令部参謀部通信班にいて、情報を専門に扱ってきたからだと思いますが、私たちのことを知っているのは、ほんの一握りの人たちだけです。どうして、下っ端の私たちの名前を知っていたのか。

 自分の命がほしいために、私たちの命を売ったと思いました。軍隊組織のひどさを痛感しました。
 私には青春時代はありませんでした。こんな経験は二度と若者にさせてはなりません。悲惨な戦争は絶対にしてはいけないと思うのです。
 私たちは、被爆した24万人余の思いを背負ってたたかっています。全ての被爆者を救済してほしいのです。核兵器は全人類を滅ぼします。オバマ米大統領は、「核兵器のない世界へ」を発信しました。
 今こそ、国は、裁判所の判断に従い、早急に全員救済に踏み出すべきです

インタビューを終えて

 翌日、「昨夜は当時のことが頭に浮かびなかなか寝つかれませんでした」と連絡がありました。言葉に詰まり涙をこらえてのお話に、一刻も早く全員救済をと願わずにはいられませんでした。(編集者)

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