【09.03.10】インタビュー 藤井克彦さん(笹島診療所メンバー、名古屋生活保障支援実行委員会代表)

共同して 反貧困の運動を!

 
人間をモノのように扱う社会はおかしい

中村区社会福祉事務所での住居のない人の相談活動を連日すすめ、生活保障支援を行なっておられる笹島診療所の藤井克彦さん。相談活動の多忙な中、藤井さんを笹島診療所をたずね、お話を伺いました。

藤井 克彦さん

1942年兵庫県生まれ。笹島診療所メンバー、名古屋生活保障支援実行委員会代表、『偏見から共生へ―名古屋発・ホームレス問題を考える』(風媒社)藤井克彦・田卷松雄共著

施設収容でなく、居宅保護という本来の運用を!

 長年、支援活動を続けてきていますが、今年は、私たちの予想をはるかに超え1月5日から30日までの19日間でのべ相談総数は1922人、一日平均100人を超える人たちが中村区役所に相談にきました。 この間、本当に大変な状況を一つ一つ乗り越えてここまできました。
 今まで、名古屋市は住居のない人に対して生活保護の申請があっても、不十分な生活環境の一時保護や緊急宿泊所で生活をさせ、その後生活保護施設に入所させるという運用で、なかなか居宅保護を認めませんでした。しかも、14日以内の保護決定との法定期間を遵守していませんでした。
 今年1月以降は、私たちが連日支援していることもあり、一時保護所・緊泊からアパートへの入居が認められるようになり、14日以内に保護決定の運用が行なわれるようになりました。
 生活保護の運用からいえば当然ですが、今までの対応からみれば大きな前進です。
 当初、相談者は立ったまま待たされていました。「長時間、立たせていいのか」と申し入れ、翌日からは椅子が用意され、その後区役所2階が待合室になりました。私たちは相談者に「こういう事ができます」「生活保護申請用紙も用意しています」と声をかけました。
 今は、行政のチラシと一緒に生活保護申請書が区役所の窓口におかれています。
 越冬委員会の生活健康班が呼びかけてはじまったのですが、炊き出しやボランティアの方もたくさん参加されるようになりました。

相談者の過半数が名古屋市外

1月の2回の調査では、中村福祉事務所の相談者45%が名古屋市内、過半数が名古屋市外からです。
 市内福祉事務所では、旧態依然とした対応で中村区へきた相談者や「名古屋へ行ってくれ」という自治体もあり、改善させないといけません。

ホームレスも派遣労働者も同じ構造

「ホームレスと違って派遣労働者は就労意欲があり」という新聞記事をみましたが、手配師が派遣会社に、ドヤがネットカフエや漫画喫茶に変わっただけで、ホームレスも派遣労働者も、全く同じ構造だと思います。 長期化すれば誰だって精神的、肉体的にも意欲が減退するわけですから、この機会にホームレス問題も考えてもらいたいと思います。

各自治体が早急に対応を

3月に向けて、住居をうばわれた大量の派遣労働者が予想される中、各自治体は早急な対応が求められています。「寮から出される前に相談にきてください」と知らせ、そこの自治体で生活保護申請をする、失業給付金の手続きをする。また、行政は派遣会社の寮を借り上げするなど緊急宿泊施設として使う。厚生労働省が音頭をとり、都道府県と連携して財政支援をすることです。この間の中村福祉事務所の取り組みをみて、他の自治体でもできることだと思います。まずは、三河で行政を巻き込んでモデルをつくれば、大きい。全国各地に広げていくことが早急に必要です。 
 行政を動かすには市民も動かないといけません。現在、3月21日~22日に三河で総合相談を行う「派遣村」(岡崎市での「反貧困・駆け込み相談会」に参加・ご協力 駆け込み相談会チラシ表 チラシ裏) が検討されていますが、当日の相談態勢、23日以降の生活保護申請などの同行支援態勢が必要ですし、炊き出しもあればいいでしょう。緊急宿泊場所の確保も必要ですが、宿泊施設は一杯で確保できていません。「お寺など1週間解放していいよ」は大歓迎。
 名古屋からの提案で、三河の態勢が整っていませんが、是非、県内のみんなで作り上げていく必要があります。協力してやりましょう。
 2月22日、トヨタのある愛知で開催した「愛知派遣切り抗議大集会」に、派遣労働者をはじめ500人を超える人が参加し、今後の大きな流れをつくる出発点になったと思います。

規制緩和推進の責任

派遣切りの問題は、1999年の労働者派遣法の改悪にあり、少なくともそれ以前に戻すべきです。新自由主義的背景で規制緩和を推進してきた自公政権の責任は問われなければなりません。 
 トヨタをはじめ大企業は大もうけで内部留保をためて、いとも簡単に労働者の首を切ることは許されません。企業責任を果たすべきです。ましてや、職と住居を失っていくことが目に見えているわけですから何らかの対策を手当てするくらいは当たり前です。

差別、抑圧される人たちの側にたって生きること

オイルショック後の1975年頃、笹島の日雇い労働者十数人が餓死・凍死と報道されました。なぜ、餓死・凍死なのか、「日雇い労働者を見殺しにするな!」と炊き出し活動、医療活動、駅構内からの排除反対運動と集団保護申請などのたたかいを通じ、名古屋市に年末年始対策をさせました。その後、1987年に拠点となる笹島診療所をつくりました。運動は大義を掲げて正直に地道にやることだと思います。あまり格好をつけない(笑い)。寄せ場から始まった小さな運動ですが、「生活と健康を守る会」をはじめ戦後の社会保障運動の大きな流れがあるわけで、運動をすすめてきた人たちに届くよう、一生懸命に考え、すすめてきました。研究者の協力を得て、当事者と一緒にやっていくことはもちろんです。
 私は、貧しい戦後を生き、資本主義の矛盾を感じていました。母がクリスチャンだったこともあり、人間をモノのように扱う社会はおかしい、貧しすぎることはよくない。分断、孤立から共同が必要だと感じてきました。差別、抑圧される人たちの側に立って生きること、イエスの生き方やマルクス主義的な考え方からも人間らしく生きることがどういうことかを学びました。
 大学卒業後、就職した民間会社は、労働者を赤だとレッテルをはる労使協調路線の会社でした。それに反論し、僕自身が村八分でした。そんな経験から、しんどくても、人間らしく生きたい、行動し学び、いろんな人たちと共同し、今後とも反貧困の運動をすすめていく決意です。

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